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アヴァンギャルドとロシア美術1900年‐1930年代

国立口シア美術館副館長
エヴゲーニャ・ペトローワ
 ペテルブルグ*の中心部、ネフスキー大通りのほど近くに、市内でももっとも秀麗な建築物の一つであるミハイロフスキー宮殿がある。 1820年代に皇帝パーヴェル一世の子息ミハイル大公のために建立されたものである。 19世紀末まで宮殿は帝室の管理下にあった。 1896年、皇帝アレクサンドル三世はこの建物をロシアで初めての国立美術館に移管する。 それ以来、ここにロシア美術館の主要なコレクションが収められてきた。
 現在、ロシア美術館は38万点以上のロシアの美術品を所蔵しており、聖像画(イコン)、絵画、素描、版画、彫刻以外にコイン、装飾・工芸、民芸品の優れたコレクションがある。その領域は18世紀から今日に至る主要なロシア芸術を網羅している。
 今のところ、スペースが不足している関係で、鑑賞のために陳列できる作品は、ロシア美術館のコレクションのわずか1%にも満たない。 そのためコレクションのうちの膨大な点数の作品が鑑賞される機会のないままになっており、多くが今にいたるも陽の目を見ていない。
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現ベテルブルグ(サンクトペテル ブルグ)の呼称は以下のように変遷した。
1703‐1914年、サンクトペテルブルグまたはペテルブルグ。
1914‐1924年、ペトログラード。
1924‐1991年、レニングラ−ド。

おそらく、ロシアの芸術が世界にそれほど知られていないのは、ロシア美術館が抱えているこのような問題とも関わりがあるのかもしれない。 したがって国外における展覧会の開催は世界の人々にロシア文化のすばらしさを訴えるひとつの手段になつている。
 札幌における今回の展覧会は、1900年‐1930年代のロシア美術をテーマにしたものである。 出展作品の点数からいえば、今回の展覧会の規模はそれほど大きいものではないが、日本での公開に向けて、ロシア美術館の膨大なコレクションのなかから60点余の絵画が選ばれた。 選択の基準としたのは、ロシアの画家たちの芸術の質であり、またジャンル、スタイル、顔ぶれが多彩になることであった。
 札幌で展覧会を行なうにあたって、私たちにとってこの時代がもっとも興味深い時代に思われたのは何故だろうか?
 第一に、今回の展覧会は、ある意味では、北海道の人々がこれまでロシア芸術と触れ合ってきたことの延長線上にある。 1990年、北海道新聞の尽力で札幌と笠間で、19世紀後半におけるロシアのリアリズムの作品展が開催された。 今回の展覧会は、ロシア芸術の発展史でいえばその次の時代を紹介するものとなる。
 本展のために1900年‐1930年代の作品を選んだ第二の、そしてもっとも重要な理由は、札幌市民をはじめ日本の観客に、20世紀初頭に鮮烈に花開いた一種独特のロシアの芸術文化を紹介したいと思ったからである。

この時代をロシアで「銀の時代」と呼ぶのも言い得て妙である。
 20世紀初頭は、世界の文化に長年にわたって影響を与えた偉大な文学、哲学、造形美術の時代である。
 言うまでもなく、わずか60点余の作品で、1900年‐1930年代のロシア芸術の全貌とニュアンスを語り尽せるものではない。 しかし、札幌での展覧会のために選ばれた絵画は、カンデインスキー、シヤガール、マレーヴィチなど、世界に知られた画家たちの作品をはじめ、当時のロシアの芸術文化の主要な潮流を代表するものである。 その中には、美術史に関する書籍や画集に収められた多くの複製画を通じて美術愛好家によく知られた名画も数多い(ゴンチヤローワ《自転車に乗る人》 cat.no.13、ラリオーノフ《ヴィーナス》 cat.no.11、カンデインスキー《青い櫛》 cat.no.24、《黄昏》 cat.no.25、その他)。
 それ以上に、日本の観客が、無名ではあるが、20世紀初頭のロシア芸術を取り巻く特異な雰囲気を絶妙に伝えている作品と出会えることの方がより重要に思われる。
 さて、1900年‐1930年代のロシア美術とはいったい何なのか?
 20世紀初頭に起こった、ロシア美術・文化の「爆発」ともいうべき急激な昂揚は、それに先立つ発展過程のなかで準備されてきたものである。

18世紀以降、ロシアは西欧的な発展の道をたどり始め、文化も含めて、すべての分野で急速に西欧に追いつくことを迫られていた。 バロック、ロココ、古典主義、センチメンタリズム、ロマンティシズムなど、400年以上の長きにわたって西欧諸国で段階を経ながら、連綿と続いてきたもろもろの潮流が、ロシアでは18世紀から19世紀前半に凝縮して噴出したのであった。 これらの様式上の潮流や傾向が、ロシアでその純粋性を保てなかったのは、ある意味では、当然のことであった。 ロシアのバロック、ロココ、古典主義、ロマンティシズムの作品は、様式が互いに混淆し合い、西欧のものとは明らかに一線を画している。 19世紀後半に入ると、ロシア芸術では写実主義が主流を占めるようになり、ロシアは西欧と比肩し得るまでになった。 しかし、発展のテンポを強めながらも、ロシアはエネルギーと前進への意欲を失うことはなかった。
 かの有名な、ロシア精神の「全世界的な敏感さ」と、18-19世紀に特徴的であった西欧志向に培われた感受性が口シア文化の統合を促した。
 19世紀及び20世紀初頭の美術家のほとんどはヨーロッパで学び、あるいは滞在することができた。 ロシアの美術展では外国人作家の作品も展示されていた。 ロシアの雑誌には、とくに19世紀末以降、西欧の芸術に関する論文が豪華な挿絵入りで定期的に発表されていた。

モローゾフあるいはシチューキンといった収集家のコレクションのなかに、20世紀初頭には早くもマチス、ド二、セザンヌ、ゴーギャンなど、当時のヨ―ロヽパではそれほど高い評価を受けていなかった画家たちの作品が混じっていた。
 有力な画家の大半がさまざまなヨーロッパの芸術潮流の感化を受けていた。 ペテルブルグの美術アカデミーやモスクワ絵画彫刻建築学校といった当時のロシアの美術学校の学生たちも、印象主義、立体主義、未来主義、表現主義についてはフランス、ドイツ、イタリアの芸術動向を通じてよく知っていた。 しかし、ロシア芸術のなかにヨーロッパの大家たちを文字通り模倣した例は見当らない。
 コローヴィンは長い間、ロシアでもっとも代表的な印象主義の体現者であると目されてきた。 それはそれなりに正当な評価であった。 事実、コローヴィンは多くの静物画や風景画を残し、そのいずれもが躍動的に、生き生きと、率直に描かれている。 しかしながら、コローヴィンの作品が外見ではたしかにフランスの画家たちの作品と相似しているものの、彼が描く静物画、風景画、肖像画の色調には鮮やかな緑、赤、茶色が横溢しており、これは西欧の印象派絵画とはまったく異なるものである。 例えば、札幌の展覧会に出品される《歌手フョードル・シャリャーピンの肖像》(cat.no.8)に代表される完成度の高いタブローには習作風のタッチがある。

コローヴィンのほとんどすべての作品に見られる、ある種の未完成とも思われる画風は、世界を「印象によって」 (“by impression”) 再現しようというアプローチの原則そのものをロシア風に解釈したものにほかならない。
 ロシア芸術における印象主義の概念はきわめて曖昧で、ヨーロッパの印象主義との共通点は部分的なものでしかない。 例えば、ヴェレシチャーギンが日本旅行中の1903年に制作した絵は印象主義の作品とされる。 そのうちの一点が本展にも出品される《日光の神社》(日光束照宮)(cat.no.2)である。ロシア美術史家たちは、ボリーソフ=ムサートフをリーダーとする「青いバラ」派の画家たちの作品にも印象主義の特徴が現われていると指摘している。 ラリオーノフが1910年代初めに提唱した「光線主義」でさえも、しばしば印象主義の芸術的な原則を発展させたものと見なされる。
 印象主義をこれほど広義に解釈してロシア芸術にあてはめること自体、この傾向を文字通り模倣する者がいなかったことを物語っている。
 それよりも驚くべきことは、ロシアでは未来主義を信奉する者や熱烈な崇拝者がいなかったことである。 ただ、ゴンチャローワ(《自転車に乗る人》)など、ごく少数の大家たちの作品に未来主義の痕跡が認められるのみである。
 ロシアにおけるドイツ表現主義の影響はどちらかといえば、間接的なものにとどまっている。

ロシアの優れた画家の多くが、ミュンヘンのアントン・アズベのアトリエで学んでいる。 しかし、表現主義の影響が及んだのは彼らの作品だけではない。 グリゴーリエフをはじめとする画家は直接ドイツでは学んでおらず、アズベの弟子、ムスチスラフ・ドブジンスキーの作品から影響を受けたのであった。
 世界をごつごつした手触りで荒々しく再現する手法は、グリゴーリエフが表現主義者から学んだものである(《缶を持つ少女》 cat.no.23)。 しかし、彼の作品に見られるソフトな造形感や豊潤な色彩はドイツ表現主義の作品にはないものである。
 これは他のどの民族にとっても同じことであろうが、ロシア芸術のメンタリティの特殊性は、自らの民族的な伝統(古来の伝統、民衆の伝統、古典的な伝統) を基盤にしながら、他民族の経験を取り込んで蓄積し、それを自分なりに咀嚼(そしゃく)しようとするところにある。 ロシアでは19世紀から20世紀にかけてこの傾向が強まった。 その文化的な背景として、歴史、哲学、文学、造形美術においてロシアの独自性を探求しようとする気運が盛り上がったことが挙げられよう。
 イリヤ・レーピンはヨーロッパ流の造形美術と様式の基準にきわめて忠実な画家として知られたが、その弟子たちの何人かは、2O世紀初めになると、突如としてロシア芸術の写実主義的な路線を転換したが、これは実に興味深い。

マリャーヴインは、ほとんど異教的ともいえる、忘れ去られたロシアの村の姿を再生することに熱中した。 彼が描く斑模様の民族衣裳をまとった女たち― それは都市文明の侵略によって途絶えてしまった、荒削りではあるが、原初のままの未開の美しさを具現したものである。 マリャーヴインの絵は、肖像画であると同時にシンボルでもある。 それは個々の具体的な人物を描いたものではない。 ここにこそ19世紀のリアリズムの肖像画と一線を画す際立つた特徴がある(《ふたりの娘》 cat.no.10)。
 レーピンの弟子の一人、ポリス・クストーディエフの作品に描かれたロシアは、わずかにロシアらしき面影を残しながらも、がらりと様相が変わってしまっている。 そこにはお祭り騒ぎに浮かれる陽気なロシアがある。 商人のぜいたくな暮しぶりもほのみえる。 クストーディエフがこよなく愛した威勢のいい居心地のよさはそのままロシアの田舎に残っていたのである。 クストーディエフにインスピレーションを与えたのは実在のものだけではなく、目撃者の話、民衆版画「ルボーク」、看板、民芸品などが絵を描くヒントになった。 そこには真実、自然、現実とノスタルジツクな夢、メルヘン、アイロニーとがないまぜになっている(《芝居小屋》 cat.no.27)。
 いわゆる新古典派と呼ばれた画家たちのうち、何人かの作品では、古いロシアの生活風俗や芸術に対する関心と、ヨーロッパのルネサンスの追憶とが融合している。 こうした混淆した精神のもとで描かれたのが、セレブリャコーワやペトローフ=ヴォートキンの作品で、いずれも今回の展覧会に出品される。

ペトローフ=ヴォートキンの《少年たち》(cat.no.9) にはマチスの影響も感じられる。 それでいて、この作品や《幻想》(cat.no.46) をはじめとする他の作品に見られる裸体の人物像の固有色や聖像画的な造形性からは、むしろ古代ロシアの流派が連想されるのである。
 「ダイヤのジャック」派の画家たちが残した遺産には、きわめてユニークな民族文化が投影されている。
 マシコーフ、コンチャローフスキー、レントゥーロフ、その他の画家は立体主義に精通し、セザンヌを敬愛していた。 しかし、彼らは古いロシアの建築、庶民の玩具、模様入りのお盆や紡ぎ車、「ルボーク」、店や工房にかかっていた看板に強く惹かれ、彼らの作品の表現手法では、どちらかといえば、その方が立体派やセザンヌから学んだ手法に勝っていた。 多くの画家が「ダイヤのジャック」に集まったのは、同派に属する画家たちの作品に見られる屈託のなさ、奇行、どたばた喜劇じみたおもしろさ、グロテスクのせいだったのだろう。
 ゴンチャローワ、ラリオーノフ、マレーヴィチ、カンディンスキーも一時期、「ダイヤのジャック」に属していた。 これほど多彩な個性を「ダイヤのジャック」に糾合し得たのは、主として、このグループが民衆的なものや「プリミティヴ」なものを創作の基盤にしようとしていたからにほかならない。

 ゴンチャローワとラリオーノフは、馴れ親しんだ正統的かつプロフェッショナルな体系を打破することのできた、おそらくロシアで初めての画家だつた。ゴンチャローワとラリオーノフは、芸術を原初の状態に回帰させようとしたのである。 彼らは、東洋諸国の民衆芸術に着目して、後にプリミティヴィズムと呼ばれることになる、ロシアにとっては新しい様式を確立した。 同じ時期に、これに近いが、やはり一線を画しつつ、別の方向で世界を表現する独自の手法を探し求めていたのが、カンディンスキーであり、マレーヴィチであった。彼らについて、「抽象主義」という概念で一括して論じられることがある。 しかし、彼らは芸術に魂を吹き込み、芸術から具象性を排除するという一つの目的を追いながらも、まったく別々の道を歩んでいる。
 こうした方向のなかで、カンディンスキーも、マレーヴィチも、芸術の民衆的な題材に関心を寄せている。 カンディンスキーにあっては、ロシア・フォークロアヘの関心は、ドイツ中世の挿絵やステンドグラスヘの愛着と同根のものである。 マレーヴィチにあっては、当初、印象主義やモダニズムに感化されたものの、後に聖像画、ロシア刺繍、木彫から啓示を受けていたのは疑いない。 二人の偉大な実験者は、先人たちの体験を踏まえつつ、民衆芸術から生のままの主題を採り入れて膨らませ、独自の芸術体系を確立したのであった。

ここで特筆すべきことは、それが原則的な意味と全世界的な価値を追求する芸術の道であること、そして、マレーヴィチとカンディンスキーは、非具象のアヴァンギャルドの両極に立ち、極限まで昇りつめたこと、さらに、カンディンスキーの詩的精神論のエネルギーと象徴主義は、マレーヴィチの本質的造形主義と構成志向のパトスとは相容れないものであることだ。
 1910年代初め、ロシア芸術は、その多彩さにおいて、限界に達したかと思われるほどの飽和状態にあった。 具象表現の枠内では、芸術は、大方の予想通り、人類や科学や哲学が到達した現代のレベルに合致しなくなっている。
 カンディンスキー、マレーヴィチ、フィローノフたちはそれぞれ袋小路からの出口を自分なりに摸索していた。 カンディンスキーは、世界を象徴的な絵画のイメージとして描くための、ある種の宇宙的なパターンを創造することによって、具象性を克服している。 彼の抽象絵画(《青い櫛》、《黄昏》、《コンポジションNo.223》 cat.no.35) は時空を超越した、事象と感情の再現であった。 絵画的な点と線は、一定のコンポジションヘと結合して、互いに作用し合い、爆発と破局を招きかねない劇的状況へと変転する。
 マレーヴィチの創作活動の軌跡は、カンディンスキーよりもはるかに屈折し、矛盾に満ちていた。 20世紀の聖像画とも言うべき《黒の正方形》で、零の彼方へ去ることを宣言したマレーヴィチは、自ら「シュプレマティズム」あるいは「新しい絵画のリアリズム」と呼んだ体系に没頭した(《シュプレマテイズムの色彩構成》 cat.no.22)。

 1915年、「0,10」展で、芸術に新時代を画したマレーヴィチの絵画39点が初めて公開された。 しかし、マレーヴィチ本人にとっては、シュプレマティズムの誕生は抽象の世界に全面的に立ち去ることを意味したのではなかった。 1920年‐1930年代初めの作品で、マレーヴィチは具象性と、世界を普遍化し、幾何学的に解釈する手法とを両立させようと試みている(cat.no.50-53)。
 ほぼ同じ頃1913−14年頃、フィローノフは、その作品のなかで、異様かつ奇想天外で、独創的な手法を考え出し、一生涯、それに忠実に創作を行なった。 フィローノフは自らを「不可視の画家」と呼んだ。 あらゆる事物と現象をフィローノフは形と色だけの視点から見ることはせず、有機的な自然の要素として見たのである。 フィローノフの考えでは、自然に生起しているプロセスを描くとき、彼は自然との共作者、共同の創造者となるのだ。 芸術家は、全体を構成原子に分離、分裂させ、同時に普遍化したカテゴリーで思考する。 感覚や概念をより適切に表現するフォルムがなかったことから、フィローノフは、それを生き生きと具現するための、いわゆる「公式」を数多く編み出した(《宇宙の公式》 cat.no.34)。

 こうして、ラリオーノフとゴンチャローワ、カンディンスキー、マレーヴィチ、フィローノフといつたロシア・アヴァンギャルドを代表するりーダーたちは、早くも1910年代に自らの革新的な発見を世に問うていたのである。つまり、ロシア・アヴァンギヤルドは、ロシア文化における実験的な現象と深い関わりを持つ1917年の革命以前に誕生していたのである。
 1910年代後半−1920年代は、ロシアの文化史における実に興味深い劇的な時代であった。 それは大いなる希望と強いられた妥協の時代であった。 概して、芸術家は革命を受容するものである。 革命はその当時、画家、彫刻家、建築家を捉えていた革新的精神と合致したのである。 建築に、そして都市や農村の街頭、住宅の装飾に新たな可能性が生まれた。 さまざまなジャンルの芸術家たちが、いわゆる反ブルジョア的なプロレタリアート芸術の創造に加わった。
 ロシアにおける革命的変革のプロセスには、芸術インテリゲンツィアがかつてないほど積極的に参加した。 当時の芸術家たちは、生活様式を変えることを自らの使命と感じていた。 マレーヴィチ、スエーチン、チャーシニクなどは陶磁器のデザインや絵つけに従事し、時代にマッチした構成的なタイプを創り出した。 ポポーワ、エクステル、ステパーノワはテキスタイル関係のデザインに従事した。 リシツキー、マレーヴィチ、エクステル、フィローノフ、シャガールなどは舞台美術の改革に立ち上がった。

ポスター、日常の視覚的背景、20世紀初頭の優れた線描の挿絵が入った本などとともに多くの目新しいものが生活のなかに入り込んできた。
 革命後のロシアで活動した芸術家は、人間と取り巻く環境を変えることに成功した。
 一方、油彩画は複雑な状況に直面していた。 1910年代−1920年代、芸術的な現象と傾向のスペクトルはきわめて幅広くなっていた。 同一の美術展に、極左から極右にいたる芸術家の作品が同時に展示されることもあった。 しかし、問題は、まず第一に、社会がタブローを以前ほど必要としなくなったことだ。 したがって、アヴァンギャルド派と保守派との競争は避けられなくなった。 新しい共産党の方針によって芸術政策が最終的に策定できない状況のなかでは観衆を獲得し、知性と感情に訴えかける手っとり早い方法を求めて闘いが起こるのも当然であった。 ある人々は、こうした状況のなかで社会革命が直ちに意識と、思考と、民衆の知覚の革命を惹起するのは避けられないと感じていた。 社会生活の形態の刷新には、芸術・美学的メンタリティの「爆発」的な転換が伴うと考えていたのである。 またある人々は、新しい時代の顔は同時代人になじんだ、分かりやすい写実的な方法で描かねばならない、と見なしていた。 一方、その同時代人はといえば、大半が芸術とは何かについて、ひどくかけ離れた考えを持っていたのである。

 伝統的写実派と芸術的急進派との対話が行なわれ、その内容は、相次いで結成され、その大半がまたたく間に消滅してしまった無数の連盟や団体の宣言や綱領のなかに盛りこまれた。
 比較的小規模の美術展では、革命後のロシア芸術の多様性をそっくりそのまま見せることは難しい。 しかし、今回の出品作品のなかには、カンディンスキーが1919年に制作した抽象画や、レーベジエフの《キュービズムー―アイロンをかける女》(cat.no.43)、アリトマン、プ二一、エクステルら構成主義者の作品が入っている。 これらの作品は、マレーヴィチやフィローノフの絵画とともに、20世紀初頭の10年間に形を成したアヴァンギャルドの路線を代表するものである。
 「ダイヤのジャック」派の画家たちの作品のなかで、たわわに花開いた感のある具象芸術は、革命後の時代にも栄え大衆にも支持された。 札幌の展覧会に出品されるクプリーンの静物画などは、革命後の時代における「ダイヤのジャック」派の画家たちの作品の特徴をもっともよく表わしている。いうまでもなく、変化した生活習慣、人々の生活に現われた新しい状況は芸術的な表現を求めていたのである。
 とりわけ感銘を与える作品が描かれたのは、国内戦の時代であった。 国内戦は民衆に未曾有の不幸と困窮をもたらした。 国内には飢餓が蔓延し、多くの人々が生存の術もなく放置された。

その当時の困苦をテーマに多くの絵が描かれたが、その一例を示すのがペステリ(《室内―食卓を囲む家族》 cat.no.42)、シュテーレンベルク(《ランプと鰊のある静物》 cat.no.41)、レーベジェフ(《カーチカ》 cat.no.32)などの作品である。
 1920年代の芸術家のなかには、同時代の状況をよりよく理解し、感じようと、工場やコルホーズ、建設現場に出かけて行った者もいた。 この当時の彼らの作品には、概して、思想的・綱領的な特徴がまだ現われていない。 ただ、自らの表現手段を駆使して、生まれつつある新しい工業文明のテンポと兆候を示しているに過ぎなかった(ラバス《汽車が来る》 cat.no.55)。
 ごくありふれた日常的なものを理想化することが、この時代の多くの画家に見られる特徴であった。 その際、彼らは実にさまざまな題材や伝統に取り組んだ。
パクーリン(《桶をかつぐ女》 cat.no.48)やパホーモフ(《刈入れをする女》 cat.no.47)は農村の日常生活を描きながら、明らかにルネサンスのフレスコ画とプリミティヴ芸術を意識している。 ペトローフ=ヴォートキンは《幻想》において、革命以前の自らのスタイルを変えることなく、革命期のいわば理想的な象徴を描いている。
 革命後の時代における芸術現象の領域は、いうまでもなく、札幌の展覧会に展示される作品に具現されているものよりもはるかに豊かで、広い。

当時の芸術家はさまざまな活動に真摯に取り組み、多くの足跡を残した。しかし、1932年4月23日、「文学・芸術団体の改組について」と題する政府の忌まわしい文書が発表され、この決定により、「社会主義リアリズム」と呼ばれる芸術表現の手段だけが合法的に存在することが認められたのである。
 それがいかなるものであるか、現在にいたるも、完全に理解されているとはいい難い。 しかし、当時の芸術がどれほどの滅菌処理を施されたか、については誰もがよく知っている。 ペトローフ=ヴォートキン、サモフヴァーロフ、ディネカといった今回の展覧会に出品される作品を描いた画家たちも「社会主義リアリズム」の基準には合致しなかった。 社会主義リアリズムの「美学」の教条主義的な狭量さによって、党官僚の気に入らぬ「異端者」がどしどし摘発された。 多くの芸術家は従来通り創作に取り組んでいたが、その作品は展示されることも、買い求められることもなかった。 彼らについては新聞も雑誌も1960年代になるまで沈黙を守り、触れることはなかったのである。

 現在は、幸いにも、「左翼」と「右翼」、亡命者と同胞をめぐる論争は終息した。 画期的な激動の時代にロシアで活動していた芸術家は、経歴、思想的・美学的傾向に関わりなく、だれかれを問わず、わが国の文化の一部となった。 そうした芸術家が創造したものを総体的にみると、そこには困
難で、矛盾に満ちた時代に特有の世界観、芸術的探求の特殊な様相が映し出されている。
 日本の観衆が札幌での展覧会を通して、2O世紀初頭の数十年間のロシアとその時代、そして、いつの時代にもあるロシア固有の世界観や芸術観を垣間見ることができたとしたら、これに勝る喜びはない。


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